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気の向くままに、現在と過去のcultureについて綴ります。どうぞ、お気楽にお付き合いください。

『聖なる鹿殺し』など、前回アップした後に観た映画、そしてもう少しだけ映画の「メタファー」について

ー「あなた様がメタファー通路に入ることはあまりに危険でありす」ー

村上春樹騎士団長殺し」) 

 

 

前回のブログを読んで、妻から

「『メタファーとしての映画』って言い方、なんかイヤラシイ感じがするよね。

それに日本語としても少し変だし」

と言われてしまいました。

 

はい。

そう言いたくなる気持ち、よくわかります。

 

私自身、以前は「メタファー」などと聞かされると、

「何をかっこつけてるのか。”それ”を表現したいなら、ストレートに”それ”を描けばいいじゃないか!」

と思ってましたし。

 

 

では今回、ほとんどが「メタファー」で構築されており、そして映画としても非常に面白い作品をご紹介したいと思います。

 

ヨルゴス・ランティモスというギリシャの映画監督がいます。

その最新作『聖なる鹿殺し』が公開されました。

 

 

そして、それに併せて、一部の単独館で(※1)過去の作品

籠の中の乙女」と「ロブスター」も上映されました。

 

実はランティモス監督、今回の作品でカンヌ三冠となります。

籠の中の乙女」(09年)が「ある視点部門のグランプリ」、「ロブスター」(15年)が「審査員賞」そして今回の「聖なる鹿殺し」が「脚本賞

 

私は『ロブスター』は以前観ていたので、今回観るのは二回目です。

なお、今回の映画感想の(※)は、ネタバレを含みますので、

これから観る予定の方はご注意ください。

 

 

 

この映画の舞台はSF的な架空世界です。

 

この世界の考えでは、

人は「カップル」という形でいることが、本来の幸福な姿なのです。

そしてまた、

カップル」が正常な社会の根幹を為している、という考えです。

 

そのため独身を続ける者は、社会不適応者として冷酷に排除されます。

 

主人公は、奥さんに別の相手(女性)ができたので一方的に離婚され、

自分には次の相手がなかなか見つからなかったため、捕まって、

郊外のホテル施設に軟禁されます。

 

そこでは、同じように独身をかこつ男女が暮らしており、

45日以内に相手を見つけないと、

手術で動物に変えられてしまうのです。(※2)

 

男たちは、日々メイドに性欲を煽られながら、

自慰行為は厳禁(これを破ると恐ろしい刑罰あり)という

「生殺し」の状態で、パートナー探しに努めます。

 

 

つまりこの作品、典型的な「ディストピア(逆ユートピア)物」なのです。

 

観客は、

主人公が属する環境が変わるごとに変化する価値観と、

新たな集団の持つ特殊なルール(※3)を理解しながら、

彼の生き延び方、そして女性関係を追っていくことになります。

 

観ているうちに、この架空世界のカップルたちは、

ふたりの間で必ず何らかの共通点を持っていることに気が付きました。

ですから逆に、

鼻血を出しやすい女性とカップルになりたい男が、

ムリヤリに鼻血をだして「僕もなんです」などと言う。

 

 

カップルが何かを「共有している」ということと、

ふたりが「共通点を持つ」ということは、

似てはいますが必ずしも同じではない。

 

それが社会で混同され、しかも個人への強迫観念になっているところが

まさにディストピア(笑)

 

主人公は逆境の中で新しい恋人と出会います。

そして、ふたり手を取って「組織」を抜けだします。

 

 

その過程で事故が起こり、彼女は大きなマイナスを負ってしまうのです。

主人公は、彼女が受けたマイナスを、自傷によって自らに課そうとします。

 

そんな障害の乗り越え方をして、

その先に獲得できる未来とは、いったいどのようなものなのか。

世界から置き去りにされたような、郊外のドライブインで、

静かに映画は終わります。

 

 

恋愛についての「寓話」、と言えるかもしれません。

 

 

さて今回初めて観た『籠の中の乙女』は、

「ロブスター」の前に撮られた作品。

こちらはSFではなくて、現代のひとつの家族の話なのですが、

設定がやはりかなり変です。

 

 

郊外にある高い塀を巡らせたプール付きの大邸宅。

 

そこに工場を経営する裕福な両親と

長女、次女、長男そして犬の一家が暮らしています。

 

子供たちはそろそろ成人の年頃ですが、

両親から「塀の外の世界は極めて危険であり、車でしか出られない。

貴方たちの兄は、外界で凶暴な野獣「ネコ」に襲われて死んだ」

と言われ、敷地内から出ることを固く禁じられています。

 

※少しの油断が悲劇を生むことを諭す父親

 

それだけではありません。

テレビなど外部からの情報は一切遮断され、観られるのは家族のビデオのみ。

棚に並べた瓶のラベルまではがされており、

物の名称も、わざと違った意味を教えられる。(※4)

 

なぜ両親がそんなことをするのか。

子供たちへの強い支配欲なのか、

あるいは

本当に、彼らの「兄」を死なせており、そのためのトラウマのためなのか、

 

理由は語られません。

とにかく、子供たちは、両親が「安全と考える価値観」の中に保護され、

封じ込められているのです。

 

 

そんな無菌状態の家族の中へ、外部から他人が入ってきます。

 

両親は「男の子には性欲がある」ことは認めており、

父の工場の警備の女性が、その欲求処理のために雇われるのです。

 

 

これをきっかけに外部の情報が入り込み、

それまでの家庭の均衡が崩れていくことになります。(※5)

 

この映画の原題は「DOG TOOTH」

父親が子供たちに

「家を出る時期になったら犬歯が生え変わるので、自分で自然とわかる」

と言い聞かせていることから来ています。

青年の犬歯は、老人になって歯が抜け始めても最後まで残るのだそうです。

 

 

最終的には子供たちの一人が、

なけなしの勇気を奮い起こして家を脱出します。

 

けれどもその果敢な行為も、

結局のところこれまでずっと家庭内で与えられてきた

「非常識」に支えられているのです。

 

そのことに思いが至ると、果敢な脱出による開放感もにわかに消え失せます。

外に出たその子がこれからどうなるのか、

ただ気うつな気分だけがのこる、

そんなラストなのでした。

 

 

では、今回の新作『聖なる鹿殺し』です。

 

前の二本はそれぞれにシュールで奇妙な設定の作品でした。

今回は、加えてよりミステリアスで深刻、

「ホラー」的な要素もある怖い作品になっています。

 

 

主人公は、中年の心臓外科医。

 

 

一人の青年を妙に大事にして、付き合っています。

 

時間をとって二人で食事をする。

青年の生活や将来の希望を聞く。

プレゼントに高価な時計をあげる。

 

 

主人公は自分の妻に青年の話をします。

 

「その子は10年前に交通事故で父親を亡くしており、

今は母親と二人暮らし。なんだか放っておけない」

 

そして正式に家に招待して家族と和やかに食事をする。

青年は礼儀正しく、

子供たち(少年と同い年の姉と少し年の離れた弟)とも仲良くなる。

 

 

穏やかに時が経過していきます。

背後に不穏な何かがあるはずなのだけれど、

それが何かはわかりません。

 

 

青年は屈託くなく主人公の好意を受け取っていますが、

次第にずうずうしい要求をするようになります。

 

強引に自宅の夕食に主人公を招き、

「母はあなたが気に入っている。男女の付き合いをしてくれ」

と言い出します。

主人公は怒り、青年から電話が来ても出なくなる。

 

その一方で、主人公の娘は青年と付き合い始めています。

 

 

やがて、主人公のまわりで奇妙なことが起こりはじめます。

まず、息子が突然倒れ、歩けなくなる。

 

 

入院させて検査をしても原因がわかりません。

そしてある日、

病院にあの青年がやってきて、主人公に話があるといいます。

 

 

「10年前、あなたの手術の失敗で自分の父親は死んだ、

そして自分の家族は崩壊した。

あなたはその責任を取って、

あなたの家族からひとりを選んで殺さなければいけない。

それをしないと正義のバランスが取れない。

この忠告を無視していると、

次には娘さんが、そして奥さんが、息子さんと同じようになり、

いずれ三人とも死んでしまう。

死ぬ前には目から血を流す。

そうなるともう間に合わない」

 

 

そして青年の「予言」通り、

娘も倒れ、歩くことができなくなります。(※6)

 

 

非現実的で理不尽としか言いようのない「神託」を受け(※7)、

主人公は次第に理性を失います。

 

一方、話を聞いた妻は、

冷静に10年前の手術に立ち会った麻酔医に会い、

夫が酒を飲んで執刀していたこと、

そして手術に失敗していたことを確認します。(※8)

 

 

追い詰められた主人公は、青年を地下室に監禁しますが、

もちろんそんなことは何の解決にもなりません。(※9)

 

そして不安から学校に教師を訪ね

「うちのふたりはどっちが優秀と思うか。あなたならどちらのこどもを選ぶか」

などと聞きます。

そしてついに、ある日息子が目から血を流します。

 

 

結局主人公は、

犠牲者を自分の意思で選ぶことを放棄したまま、

暴力を行使するのです。

それは、

「意思の欠落したテロリズム」とも言うべき行為です。

 

おぞましく目をそむけたくなります。(※10)

 

では彼はどうすればよかったのか

そう問われても、

答えは見つからないのですが。

 

 

映画を思い出しながら書くのに熱中してしまい、

長々と書いてしまいました。

今回はほかの映画のこともとりあげて、

映画における「メタファー」に触れるつもりだったのですが。

 

次回は簡潔にやりたいと思います、どうぞご容赦ください。

 

 

 

 

※1 私は阿佐ヶ谷の「ユジク阿佐ヶ谷」で観ました。

14年に地元の映画館「吉祥寺バウスシアター」が閉館した(!)ため、

現在はここと新宿の「シネマカリテ」で観ることが多いです。

そしてバウスの遺志を継いだ「爆音上映」があるときは、立川の「シネマ2」へ

 

 

 

※2 どんな動物に変わるかは自分で決められます。

主人公が連れている大型犬は、実は元兄。

主人公はもし変えられるときは、

ロブスターにしてもらって海底でひっそりと暮らしたいと考えています。

 

 

※3 日課として森へ「独身者狩り」に出かけます。

麻酔銃で一人捕まえるごとに、

45日の施設滞在が一日延ばされるルール。

 

 

その後、主人公はいったんカップル成立となるのですが、

そのためについた嘘が露見してしまい森へと脱出。

そこでレジスタンスの人々に助けられます。

 

 

しかしその集団にはまた別の特殊なルールがあって…と、

異常で残酷な出来事が、奇妙なリアリティを伴いながら淡々と語られていきます。

 


※4 『電話機』とは「塩」のことだと教えられ、実際の電話機は母の部屋のキャビネット奥に隠されています。

 

さらに『高速道路』とは強い風の意味、庭に咲いた小さな花の名たずねると『ゾンビ』よと、

家族内でしか通用しない知識が与えられます。

 

 

三人の子供たちの日常は、

 

空に白く小さく見える飛行機を求めて走り、

「飛行機が落ちたぞ!」という父の声を聞いて芝生に飛び込むと、

おもちゃの飛行機が落ちていてそれを奪い合ったり、

 

父親がこっそりプールに放った魚を見つけて、

「突然プールの水が魚を生んだの!」と喜んだり、

勉強の成績が良いともらえるシール(貯めると賞品がもらえる)を集めたり、

 

そんな日々を暮らしています。

 

 

※5 長女は、長男の相手の女性と取引して、

三本のビデオテープを手に入れ、

生まれて初めて「映画」を観ます。

 

そして彼女は不器用に、映画で見た外部世界を模倣するのです。

 

例えば家族のパーティで、長女は疲れも見せずギクシャクと奇妙なダンスを踊ります。

 

 

身体も神経もバラバラで、気持ちにまるで追いつかない。

けれど彼女の中で映画「フラッシュダンス」のあのシーンが

大暴れしているのがわかるのです。

 

 

三つのビデオの映像は画面には現れません。

 

けれど長女の言動から、

残りの二本は「ジョーズ」と「ロッキー」であることが推察されます(笑)

 

そして、外部のビデオを持っていたことが父に露見します。

 

 

このあとの「折檻」がすごい。

 

父は取り上げたビデオテープをガムテープで自分の手に縛り付けると、

その手で思い切り長女の頭を殴るのです。

何度も何度も、黒いプラスチックケースが破壊されるまで。

 

 禁じていた品物で殴るという、

あまりに強烈な物理的説得力に、呆気にとられました。

 

ついでに書いてしまうと、

「ロブスター」の独身者施設で、禁じられた自慰行為を犯した罰。

それは「トースターに手を入れさせて焼く」というものでした。

 

こうした「痛み」や「恐怖」など、身体の感覚を強く呼び覚ますシーン。

これを私は「映像の身体性」と呼んで珍重しております(笑)

 

さらに言えば、「ロブスター」では、

主人公がレジスタンスに加わったとき、

最初に自分の”墓穴”を掘らされます。

 

「人はみな一人で死んでゆく」のだから。

 

墓穴からは、物語を越えて、土の湿気や匂いが感じられ、

この監督の優れた「身体性」を感じさせました。

 

 

 

※6 ある日、入院中の娘の携帯に青年から着信があります。

「今駐車場にいる。窓から僕が見えるかい」

立てないので窓まで行けないと答えると

「大丈夫。試してごらん」

その言葉通り、娘は立って窓まで行き、青年の姿を確認します。

 

 

青年は何らかの力を操作できるようなのです。

親が娘の立ち姿を見たとたん、力は喪失しまた足は萎えてしまうのですが、

 

※7 この作品、ギリシャ神話のエピソードが元になっているとのこと。

 

女神アルテミスの聖なる鹿を殺してしまった父アガメムノンの罪を償うために、

娘イピゲネイアが犠牲になるという話です。

 

※8 妻は朝、登校前の青年にも会いに行きます。

 

汚くパスタを食べるところを見せられ

「死んだ父と自分とはパスタの食べ方が似ている」

そんな話を聞かされただけです。

 

理由はわかりませんが、

「神託者」である青年と三番目の「生贄」である妻との、

越えがたい溝を感じさせる、

奇妙に印象に残るシーンです。

 

 

だいたい、この映画に出てくる人たちは、

みんな自分のことしか考えていません。

 

麻酔医など、停めた車の中で、主人公の手術失敗の秘密を話すのに際して、

この妻にマスターベーションを手伝うことを交換条件にします。

 

青年の母親は、青年が席を外すと、

いきなり主人公の指(執刀医である彼の指は人々から「キレイ」と称賛されています)を口に含むし。

 

妻も、「生贄にはもちろん自分を選ばないわよね」と主人公に言い、

「子供は死んでも、また作りましょう」などと言う。

 

娘も息子も、主人公に自分を選ばないでくれと言い、

自分の優れているところをあげます。

 

そして一番ひどいのは主人公。

元はと言えば自分が酒を飲んで手術をしたために起こったことなのです。

 

登場人物たちは、それぞれの「葛藤」を見せるのですが、

かといってそこに、内省や他者への配慮があるわけではありません。

ドラマは強靭で宿命的な「力」で動いていきます。

そこらへん、この映画の”語り口”は非常に「神話」的と言えます。

 

※9 監禁して暴力を振るう主人公に対し、青年は主人公の腕に噛みつきます。

 

「どう、痛い?もし僕が謝っても、その痛みは消えないでしょ。

触られたりしたら余計に痛いでしょ。

あなたを納得させるには、こうするしかないんだ」

 

今度は自分の腕に思い切り噛みついてみせます。

「どう、これでバランスが取れた。わかる?これはメタファーだよ」

 

 

妻は青年を脅しても意味がないことを知っており、彼を解放します。

彼の足先に妻が自分の唇を当てるシーンは、

宗教的なものを感じさせます。

 

 

※10 画像は自主規制。

 

 

それと、この映画では全体に病院のシーンが多いためか「縦の移動」が多用されます。

 

 

スタンリー・キューブリックの「シャイニング」でも

ホテル内で「縦の移動」が多用されました。

 

 

共に不安定な「家族」を扱った映画です。

 

そこでの「縦移動」の多用は、

観ていてひどく不安にさせられるのです。

 

迷路の中を進むような気分になるからなのかもしれません。