Movies,Musics,and More

気の向くままに、現在と過去のcultureについて綴ります。どうぞ、お気楽にお付き合いください。

エンケンが死んだ

エンケンこと、

遠藤賢司さんが亡くなった。

 


癌であることはもちろん知っていた。


けれど、去年の9月にクワトロのライブで観た時は、

相変わらずの凄まじいエネルギーだったし、

今年も6月にライブをやっていた。


10月16日のライブは中止したものの、

年明けのアルバム発売も予告していた。
まさかこんなに急に逝ってしまうとは、

思ってもいなかった。

 

 

遠藤賢司は高校生のときから好きだった。

岡林ではなく、拓郎ではなく、陽水でもなく、

とにかく遠藤賢司が大好きだった。

 


ニュースでは「ボブ・ディランの曲を聴いたのをきっかけに」と言っていたが、

その音楽には誰の影響も感じられない。

最初からオリジナリティの強いひとだった。

 

滅多にひとを認めない中村とうよう氏が、

偏狭な関西フォークの人たちを揶揄しながら、

69年の遠藤賢司の初ステージでの、

だれも見たことも聞いたこともないギター奏法を褒めていた。


ディランよりも、

遠藤賢司といえばニール・ヤングだろう。

僕は遠藤賢司からニール・ヤングを教えてもらった。

極度の繊細さと圧倒的な爆発力とが、

一本の綱のようにねじれ合って迫ってくるところも、

ニール・ヤング兄さん」譲りな気がする。

 

 

遠藤賢司は自分の音楽を、

「純音楽」と呼んでいたけれど、

とにかく魂にダイレクトに訴えてくる。

 


「不滅の男、遠藤賢司vs武道館」という、

観客席が空っぽの武道館のステージで、

エンケンがひとりで1コンサート分の演奏をするという

ドキュメンタリー映画が作られた。

 

僕は初日に妻と観に行った。

 

上映前にアンプを背負ったエンケンが後ろのドアから現れて、

通路ぎわに座った妻の真横でいきなり三曲演奏した。

妻はスポンと頭の栓を吹き飛ばし、

以来エンケンに夢中になってしまった。

 

遠藤賢司は、

最初からあのエンケンだったわけではない。

初期のステージではほとんどしゃべらず、

柔らかく繊細な心を固く閉ざして、

ほとんど不機嫌な顔に見えていた。

 


それが、オーケストラと「喜びの歌」を歌った頃から変化し始め、

不遇の時期を経て「東京ワッショイ」での再ブレイク、

陽水に「お前もガンバレよ」と言われたことへの怒りを露わにした

「不滅の男」あたりでエンケンになった気がする。

 

 

去年のクワトロでは、

エンケンの体調を心配する僕たちに対して

「不滅の男」で僕が「ガンバレよ、なんて言うんじゃない」と歌ってるので、

みんな僕が「ガンバレ」という声援を嫌ってると思ってるんだろうけど、

上から目線の言い方が嫌いなだけで、

気持ちのこもった「ガンバレ」という言葉は好きです」

などと言うものだから、

みんな「エンケン、ガンバレー !」「ガンバレ、エンケン!」と

声を限りに叫んでしまった。

それに対しエンケンは、「ありがとう」と応えた。

 

ああ、エンケン
猫が大好きで、猫の歌をたくさん作ったエンケン

 


あがた森魚のバンドの女の子を掻っさらい、結婚してしまったエンケン


見よう見まねでハーモニカホルダーを作り、

「日本人で初めてハーモニカホルダーを使った人」になったエンケン


ピックガードから大きく塗装の剥げてしまったギターを、

今もステージで弾いているエンケン

 


僕が大学のころ、

京都銀閣寺のライブハウスでは、かなり遅れて現れ、

そしてほとんどしゃべらない遠藤賢司に客全員が緊張してしまい、

中盤やっと「リクエストはありますか」と口を開いてくれたので、

僕が勇気をふり絞って「ほんとだよ」をリクエストをしたら、

黙って歌ってくれたエンケン


吉祥寺の銭湯でやった時には、

最前列の真ん中で立ち尽くす僕を、

真っ直ぐに見て視線をずらさず、

延々とエレキギターを弾いてくれたエンケン


まるで宇宙に真っすぐに繋がっているかのように、

無尽蔵なエネルギーを感じさせたエンケン

 

僕は知り合いではないから、

エンケンが死んでも、

相変わらず思い出したい時にエンケンを思い出すだろうし、

聴きたいときに彼の音楽を聴く。


それは変わらない。
けれど、

とりあえずサヨナラを言っておこうと思って、

この文章を書きました。

 

エンケン、さようなら。


今までありがとう。