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気の向くままに、現在と過去のcultureについて綴ります。どうぞ、お気楽にお付き合いください。

「澁澤龍彦」を振り返る

※旧ブログの記事ですが、(

澁澤龍彦氏こそ、永遠の王子と言えるでしょう。

「王子」関連記事としてお読みください。

 

 

澁澤龍彦没後30年』

なんだそうです。

30年。

もうそんなに経ったのですね。


 

 

昨年末は世田谷文学館へ行き、

それを期して開かれた

澁澤龍彦 ドラゴニアの地平』

を見てきました。

 

 

で、当ブログでも「澁澤龍彦」について

改めて語ろうと思ったのですが、

これがなかなか難しい。

 

Wikipediaを見ると、

澁澤龍彦の肩書は

「小説家、フランス文学者、評論家」

とあります。

「小説」は澁澤のメインの仕事ではない

と思われるので、

「小説家」が頭にくるのは変なのですが、

それにはそれ相当の理由があるとも思います

(理由は後で述べます)

 

さて、澁澤の経歴を改めて見てみると、

「澁澤=異端のひと」という時代が、

初期にまず長くあったことがわかります。

 

澁澤の名は、

サドの翻訳者・紹介者として知られており、

エロティシズム」は、自身が掲げた看板の

真ん中に位置していました。

 

さらにその横には『黒魔術』や『秘密結社』など、

「オカルティズム」が並んでいる。

このため、一般には「地下室で女を鞭打っている」

といった、

おどろおどろしいイメージがあったようです(笑)(※1)

 

今では笑い話なのですが、

しかしかつて世間というものは、

異物」を受け入れる度量など見せることのない、

かなり偏狭なものであったのです。

 

そんな編奇なイメージを持たれる一番の原因であった

澁澤翻訳のサド『悪徳の栄え』が、

1961年に猥雑文書として摘発されました。

そして、その裁判に対して、

澁澤を護ろうと高名な文化人たちが集まりました。

このことが、

逆に「澁澤龍彦」の名を広く世間に広めたのですから、

かなり皮肉なことです。(※2) 

 

 

で、一般的な説明はこの辺にして、

ブログですので、私個人の「澁澤体験」を語らせてもらいましょう。

 

最初に夢中になったのは高校時代、

後に『胡桃の中の世界』として一冊に纏められることになる

ユリイカ」誌連載のエッセイを読んでからです。

 

 

目次を見ると、

「石の夢」「プラトン立体」「螺旋について」

ギリシャの独楽」「ユートピアとしての時計」などなど。

字面だけ見ると、

どことなく古色を帯び、学術的というか、

観念的で固いイメージを持たれると思います。

が、内容はちょっと違うのです。

論より証拠、

澁澤の文章のサンプルを書き写します。

少し長くなりますが読んでみてください。

(文中、略した部分を…で示します)

 

 

少年時代、父にもらったイギリス煙草ウエストミンスターの空き缶に、私は、気に入った小さなオブジェのようなものを、たくさん収蔵しておいた思い出がある。

…むろん、私はそのころ、…オブジェなどという言葉もつゆ知らず、…幼い自分の衝動が、どんな心理的な源泉から発するものであるかなどということも、一度として考えたりしたことはなかった。

…いったい、どのようなものを集めていたのかと言えば、…壊れた懐中時計の歯車だとか、長火鉢の抽斗から盗み出した老眼鏡の玉であるとか、スポーツマンの従兄弟にもらったメダルだとか、練兵場で拾った真鍮の薬莢だとか、…役にも立たないガラクタばかりである。

しかし…そこにはおのずから選択の基準があって、…たとえば、布製のものや紙製のものは…きびしく排除されねばならなかった…

私の審美眼にもっとも適う気に入りの材質は、もっぱら金属やガラスやエボナイト…などといった、光沢のある、堅牢な、冷たい硬質のものばかりであった…

さらにもう一つ、…選択の基準ともいうべきものを挙げるならば、それはこれらのオブジェが何の役にも立たないという、まさにそのことだったのである。

時計はこわれていなければならず、時計としての全体のメカニズムから遊離した、一つの無意味な部分品でなければならなかった。…

少年時代の私が、これら…に、エロティックなものの反映を見ていたと言えば嘘になろう。

ただ、エロティシズムを意識するより以前の、何かうしろめたいような、ことさら秘密にしておきたいような、いわば一種の予感としてのエロティックな気分が、私のコレクションにはつきまとっていて、それが私のヴィタ・セクスアリスとも微妙に交錯していたということは紛れもない事実である。

カニックとエロティックとは、どこかで通底していたのである。

(「足穂アラベスク」より)

 

いかがでしょうか。

文章は明晰で、

誰にでもわかる言葉で書かれており、

あいまいさや思わせぶりなところがない。

澁澤個人の記憶と嗜好が語られるのですが、

読み手はまるで

自分の記憶の底をさぐっているような

気分になってしまう。

そうなのです。

我々読み手は、澁澤の文章をたどりながら、

その中に紛れもない「自分」を発見していくのです。

普段あいまいさの中に紛れ、眠っていた自分自身を、

くっきりとした輪郭をもって見出していく。

そうしていつしか

「精神の高み」のような場所までつれて来られ、

その見晴らしの良さに

大きな解放をあじわうことになる。

それが澁澤の文章の魅力だと思われます。

いやあ、本当に夢中になりました。

 

さらに、

澁澤は、評論やエッセイだけでなく、

翻訳そしてアンソロジストとして、

マンディアルグバタイユ石川淳泉鏡花と、

国の内外や時代の新旧を越えて、

未知のあるいは既知の作家の、

新たな魅力をみせてくれる。(※3)

また文学だけでなく、ポール・デルボー、ハンス・ベルメール

さらにはギュスターヴ・モローなど、

美術作品にも目を見開かせてくれました。(※4)

 


 

 

幸運なことに、

若い私が好奇心の触手を無軌道に伸ばしていた時期と、

澁澤が暗い「地下室」から出て、

より広く活動の域を展開していった時代とが、

うまくシンクロしていたのだなと、

今にして思います。

 

こうして、長きにわたり、

澁澤龍彦はあたかも太陽のように、

幻想文学」とカテゴライズされる広大な領域の、

その中心にいたのでした。

 

 

その影響力は、

例えば、それまで独りで空に光っていた星々が、

澁澤の導きによって、

星座の中にそれぞれの位置を定めた、

とさえ思えたものでした。

そうした体験により、

今では自分のものの見方が、

私本来の嗜好に起因しているのか、

澁澤の影響によるものなのか、

自分でもよくわからなくなってしまっています。

 

ですが、そういう一時代を経て、

いつしか私の心は、

なぜか澁澤に距離を置くようになっていました。

 

種村季弘氏が澁澤のことを「メートル原器」に例えています。

 

メートル原器とは、1メートルを示す絶対の基準です。

絶対不変の1メートル。

メートル原器を測ろうとうかつに近づく者は、

逆にメートル原器によって測られてしまう。

 

そういう絶対の国王が統べる国に暮らせる幸福、

それはそう長く続くものではない

ということだったのかもしれません。

 

87年の澁澤死去の報にも、

私は奇妙なほど動揺を感じませんでした。

 

最後の著作『高岳親王航海記』は、

発刊後一年以上過ぎてから読み、

さすがに強く心を揺さぶられました。

それは本当にすばらしいと思える小説でした。

 

けれどそこにはもう澁澤に対する執着はなく、

「あの人はこれほどのものを最後に遺して逝ったか」という、

称賛と見送りの気持ちが強かったのでした。(※5)


 

それからさらに一年ほど過ぎたある朝、

私は本棚の一画を占めていた澁澤の著作を、

高岳親王…」「胡桃の中の世界」「幻想の画廊から」の3冊だけを残して、

残りを5つほどの束に縛って、

紙ごみの日に玄関前に出しました。

 

決して軽んじたわけではなく、

古書店を呼んで金銭に換えることに抵抗があったのです。

 

 

今では、澁澤の著作は、

そのほとんどが文庫で読めるでしょう。

膨大な数が出ています。

 

それを悪いとも言いませんが、

若い人が自分の直感の細道で、

この「黒メガネの魔王」とめぐり合う喜びが、

果たして残されているのだろうか、

とは思います。

 

 

その後、私は

澁澤関係の本を一冊だけ買いました。

集英社新書ヴィジュアル版「澁澤龍彦ドラコニア・ワールド」

 

 

 

編者は澁澤の妻の澁澤龍子、写真は沢渡朔

内容は澁澤が昔から使っていた品々や集めたオブジェの写真、

それと澁澤の文章の精粋から成っています。

 

どのページを開いても楽しく、喜びに満ち、

側に置く澁澤の本は、

これ一冊でよいとさえ思ってしまうほどです。

 

古くからの読者にも、入門にもおススメします。

 

今回の『澁澤龍彦 ドラゴニアの地平』の展示内容もこの本が基本になっており、

「どうしても『実物』が見たい」という人でなければ、

特にこの展示から得るもの、

持ち帰るものはないようにも思いました。

 

なにしろ澁澤というひと自身が、

せっかく海外の美術館で好きな絵画のオリジナルを見ても、

「俺の持ってる画集の絵の方がいいな」

と言ったという、

「実物」よりも「イメージ」を尊重する

根っからの”書斎派”だったのですから。

 

 

 

(※1)「妻がいると知った人が驚いていた」と、妹さんが語っています。

裸の写真を雑誌に載せたりするので人は驚くわけですが、

実際は子供っぽい自己演出過多のひとだったとか。

トレードマークの黒メガネも、

写真を撮られるときに慌ててかけていたといいます。

 

(※2)大岡昇平、吉元隆明、遠藤周作大江健三郎埴谷雄高等。

なお三島由紀夫はそれより早く、「サド選集」に跋文を寄せており、

以後三島が死ぬまで親密に交際を続けていました。

 

(※3)澁澤は、自分が編んだアンソロジーの後書きに、

「小説において何より大事なのは、「スタイル」なのであって、スタイルさえしっかりしているなら、内容は二の次とさえ思っている」と述べており、

当時の私には、まさに頭を殴られ、目からウロコがはがれ落ちる思いでした。

 

(※4)今では「アウトサイダーアート」「アールブリュット」として認められている、主として精神的に問題を抱えている美術家の作品なども、「空間恐怖」という観点などにより、非常に早くから関心を向け、取り上げていました。

 

(※5)最期の仕事としてにこのすばらしい小説を残したことにより、

肩書の頭に「小説家」が来るのではないかと思います。