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気の向くままに、現在と過去のcultureについて綴ります。どうぞ、お気楽にお付き合いください。

『イージー・ライダー』とは何だったのか

※旧ブログの記事ですが(

我らが哀しき王子=ピーターフォンダを扱っています。

「王子」関連記事としてお読みください。

 

 

先日立川で、

あの伝説の映画「イージー・ライダー」(69年)

大スクリーンで観て来ました。

シネマツー名物の「爆音ナイト上映」です。

 

 

一般に「アメリカン・ニューシネマの代表作」とされているこの作品。

みなさんの頭にあるのは、

ふたりのヒッピー(ピーター・フォンダとデニス・ホッパー)が

チョッパーと呼ばれる変形バイクに跨って、アメリカの荒野を旅する、

そんな漠然としたイメージでしょう。

 

で、この作品、いったいどこが「どうスゴイ」のか?

あるいは、当時「どうスゴかった」のか?

 

実は当時リアルタイムで観た私にとっても、

この作品は評価がしにくく、

長く棚上げにして宙ぶらりんの状態だったのです。

 

今回、それを改めて考えてみました。

性質上「ネタバレあり」なので、ご注意ください。

 

 

名の知られたスターなど一人も出ないこの映画。

にもかかわらず、当時(日本公開は70)

新聞の夕刊に、全面を使った広告が出たのをよく覚えています。

私が高校1年の時です。

 


 

そこには大きく、ピーター・フォンダを後ろから描いたシルプルなイラストがあり、

主演のふたりの名前と

「この作品は、現代のアメリカに、自由な若者二人を投げ込んでみせる。

そしてそれがどうなるか、それをまざまざと教えてくれる」

そんな惹句だけが書かれていたと記憶しています。

 

具体的な情報はどこにもない。

ただ、この作品の公開自体が

いま、この時代を生きる私たちにとって、ひとつの“事件“なのだと、

それが静かな高揚感として伝わって来たのでした。

 

 

さて、内容です。

主人公ふたりは、麻薬を密輸して大金を得る。

その金を持って「復活祭(マルディグラ)」を目指す旅に出ます。

ロックミュージックをバックに、脈絡と抑揚を欠いた旅の模様があり、

そして衝撃のラストシーンで、切断されたようにプツリと終わる。

そんな映画です。

 

オープニングからの出足は快調です。

 

南米の赤茶けたスクラップ場。

陽気なメキシカンから仕入れたコカイン。

それを、人気のない飛行場の脇で、リムジンに乗った大金持ちに売りさばく。

頭上低く、爆音を上げて航空機が通過します。

 

 

手入れた大量のドル札を、小さく丸めて透明なチューブに詰め込む。

そしてそれを、バイクのタンクの中に隠す。

 

バイクに跨り、外した腕時計を大地に投げ捨てる。

二台のバイクが、排気音をあげて荒野に走り出すと、

ステッペン・ウルフ「ワイルドで行こう!」の激しいリフが流れ始める。

 

新鮮で自由な風を浴び

ノーヘルでなびく長髪。

いやあ、カッコイイ!!

 

 

で、実際の旅が始まるとテンポが落ちます。

今回見直して感じたのは、新しい時代のヒーロー然と記憶していたふたりが、

実は行き当たりバッタリで、かなりグズグズな人たちであったということです。

 

続くヒッピーコミューンの場面も、

当時の私は、新たな若者集団の形として、かなり真剣に見ていました。

あの頃は日本にも、長野の山中、鹿児島の離島などに、

◯◯族などと名乗るコミューンがあったのです。

 

ところが今観るとこの集団、

みな、自然派で個性的なヒッピー服で見かけは良いのですが、

やっているのは、頭でっかちの理想やカッコつけの東洋思想を振り回すだけ。

カラカラの土壌に種蒔きしたりで、実質がない。

いっしよに暮らしている即興劇団のやってることも、子供(たくさんの小さな子供たちが同居しています)が喜ぶだけのバカ騒ぎ。

そして、

「この前来たゲストに、食料は自分で調達してって言ったら、マリファナを独り占めされた」といった、運営に関わっている女性メンバーのグチ。

男たちは、新たに入ってきたバイクコンビが、

自分の女に手を出すんじゃないかとの疑心の目を向ける。

 

これは多分、当時のコミューン「あるある」だったのでしょう。

実態を知つていたアメリカの若者は大笑いしたのでは、と想像します。

 

 

この映画の脚本に主演のふたりとともに名を連ねているのが、テリー・サザーン

彼はプロの作家で、「博士の異常な愛情」「ラブドワン」「カジノ・ロワイヤル」「キャンディ」「バーバレラ」などの作品名を挙げれば、そのポップで皮肉な作風がわかると思います。

 

さて、ここだけ見れば「なにが自由だ」「どこが新しい関係だ」なのですが、

ふたりが小型カメラを持ち、仲良くなった女性たちと湖に行き、

全裸で水浴びをし、それを自撮りするシーンでは、

小型カメラの画像の荒さの効果もあって、理屈抜きの開放感に溢れています。

 

男女の全裸水浴びは「ウッドストック」にもあり、

ヒッピー映画の定番シーンと言えますが、この作品が最初かもしれません。

 

ここで、少しだけ理屈っぼい話を。

集団の「理念」や「枠組み」は多く男たちによって作られると思うのですが、

その骨組みに血を通わせ肉を与えるのは、女性たちの存在なのですね。

 

この映画の薄っぺらなコミューンで、水浴びのシーンだけが楽園的な美しさを保っているのも、彼女たちのおかげです。

男たちは女性の力を借りて、自分があたかも楽園にいるかような、刹那的な錯覚を持つことができる。

これは、いつに変わらぬ原則です。

我が国においても、荷風の「墨東奇譚」の昔から、「不倫」が溢れる現代まで。

 

閑話休題

さて、ふたりはこの後訪れた町で、

バイクで勝手にカーニバルの列に加わったことで警察に逮捕されてしまいます。

 

この辺りから、ふたりの気ままで勝手なお気楽気分に、段々と閉塞感が現れてくる。

留置場で知り合った飲んだくれの弁護士(若き日のジャック・ニコルソン!)

の助けで解放されて、その陽気な弁護士が旅の仲間に加わります。

 

 

しかし、立ち寄った別の町で、

よそ者であり、異形である彼らヒッピーに、町の若い娘たちが性的な関心を寄せる。

それに反感を持った町人たちが、郊外にテントを張る彼らの寝込みを襲います。

弁護士はあっけなく死んでしまう。

 

そしてふたりは、死んだ弁護士が行きたがっていた「娼館」へとやって来る。

そこでそれぞれ気に入った娘を選んで、街へと繰り出します。

 

そしてなぜか墓地を訪れ、あのコミューンのリーダーが別れ際に「一番大事な人と出会ったら開けるんだ」と言って渡してくれた小さな包みを開ける。

これ、高校生の私はよく分からなかったんですが、中身はLSDです。

相手は適当に選んだ娼婦だし、中身はLSD。

正直「一番大事な」もヘッタクレもない。

この墓地で展開される映像は、ドラックの気分をうまく反映しています。

 

 

今見ると驚くほどのことはないのですが、この当時は斬新だったことでしょう。

実際にドラックをやって撮影したという話もあって、

ピーター・フォンダのセリフなど、本人の家族(父はヘンリー、姉はジェーンの俳優一家)へのトラウマ的な記憶めいていて、

ドキュメンタリーのようなタッチになっています

(私は、大島渚新宿泥棒日記」の横山リエの告白シーンを思い出しました)

 

さあとうとう南部、「復活祭」の地ニューオリンズは間近です。

出発時の高揚感はとっくに消え失せている。

元々「マルディグラが見たい!」という旅ではなく、

大金を持った気ままな旅の目的地をそこに選んだだけです。

 

むしろ旅の間に抱えてしまったものが、澱のように胸に沈んでいる状態。

これまでもホテルに無視されるなど、さまざまな差別や嫌がらせを受けて来た旅でしたが、ここで決定的なことが起こります。

 

トラックに乗ったふたりの農夫が示す、

ヒッピーへの侮蔑を含んだ、あからさまな嫌がらせ、

それに対して彼らも、バイクの上から中指を立て、反撥と怒りを返す。

 

 

すると、南部の農夫は「一発脅してやれ」とライフルの銃口と向けるのです。

弾は発射され、デニス・ホッパーのバイクは転倒。

 

驚いたピーター・フォンダが駆け寄ると、たくさんの血が流れており既に虫の息。

 

農夫は脅すつもりの弾が当たってしまったことに気づき、トラックをUターンさせる。

救助のためではなく、後始末をつけるために。

 

怒りに燃えたピーター・フォンダが、バイクでトラックに向かう。

 

農夫のライフルは今度はまともにバイクを狙って発射され、

弾がバイクに当たるシーンは、欠落したかのようにないのですが、

彼のバイクも、黒い煙をあげて炎上しているのが映る。

 

あまりにあっけない幕切れ。

バイクの細く長いフロントフォーク(ハンドルから前輪部分)だけが、

本体を離れ、まるで切り落とされてもなお止まらない馬の首のように、

惰性で道路を走っているのが一瞬映ります。

 

燃え続けるバイクの、黒煙を映すカメラは地上を離れ、

だんだん空高く昇って行き、

バーズ「イージーライダーのバラード」が流れだす。

 

 

さてさて、イージーライダーとは結局どういう映画だったのでしょうか。

この映画にはさまざまな異質な要素が玉石混交で絡み合ってます。

冗談と真面目さ。

明らかに行き当たりばったりだけど、新鮮かつ斬新と感じる撮影。

ダラダラとマリファナ吸っているだけなのに、奇妙にリアルな会話。

 

 

そしてそこに、映画としてしっかりと計算された場面が挟まって来る。

要所に流れるロックミージック。

 

それらが化学反応を起こし、偶然の力も働いて、

この映画には「一回限りの奇跡」のような時間が記録されることになりました。

 

観客は、いつしかこの映画特有の「リアル」の中に立ってしまうのです。

そしてあの衝撃のラストシーンに、

自由な空気を吸って開いた自らの胸の、真ん中を撃ち抜かれてしまう。

 

今の目で見直して、力を失った場面もないことはない。

けれど、あのチョッパーバイクに跨ったピーター・フォンダの、

まるで悲しい王子のようなかっこよさ。

 

 

 

そして最後に主人を失った前輪だけが走る映像。

観るひとを凍らせるようなその美しさは、

 

今後も永遠に変わらないと思えたのでした。