Movies,Musics,and More

気の向くままに、現在と過去のcultureについて綴ります。どうぞ、お気楽にお付き合いください。

人生初「ダウン」

久しぶりに、ボクシングの話です。

 


ボクシングを始めて、3年と少し。

 

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昨年末くらいから

「そろそろマウスピースを作りませんか」

と言われてました。

 

 

リングで闘うと言っても、それまでやっていたのは「マスボクシング

基本的に、顔面にはなるべくパンチを当てないようにします。

あるいは上級者とやらせてもらって、こっちは当てるが、相手は当てないようにしてくれます。

 

 

トレーナーは言いました。

「攻撃を受けながらパンチを打つのは、全然違いますからね」

 

 

そりゃあそうだろうと思う。

でも、こっちは「マス」で覚えることがまだまだたくさんある。

そう考えてました。

 

 

けれど、だんだん上手くなってきます。

 

こっちの「いいパンチ」が相手の顔に当たってしまうことが多くなってくる。

こっちだけ当てるのは、なんだか卑怯のように思えてくる。

それと、

「若いころからやってれば、いいとこまで行ったんじゃないですか」

「パンチが重いし、スピードもあります」

「体力ありますよねー」

などとおだてられ、60過ぎのオヤジが、正直いい気になっていた部分もあります。

 

で、ついに「マウスピース」を作りました。

 

 

意気揚々とジムへ。

「じゃあ、やってみましょうか」

 

初めてのスパーリング。

マウスピースを前歯に押し当て、

ヘッドギアを着け、カップを履く。

 

相手は若く、身長も少し上、体重と体力とはかなり上

経験豊富でテクニックははるか上、

 

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正直怖いし、緊張で固くなる。動きが悪い。

プロテクターとマウスピースの違和感。

すぐに息が上がる。

顔面にパンチを受ける。

12オンスのグローブとは言え、想像以上のショック。

 

 

いつものようにはパンチが相手に届きません。

まるでからかうように、ガード甘さを身体で思い知らされる。

2ラウンド目でボコ殴りに遭い、完全に白旗状態。

 

心の中で叫びました

「もうダメです!」

「見りゃあわかるでしょ!」

 

ところが、相手は攻撃の拳を止めません。

ガードが下がって、がら空きの顎にパンチ!

頭がくらっとして、しりもち。

ダウン。

 

 

トレーナーが飛んできました。

「大丈夫ですか」

「…ちょっとびっくりしただけです」

悪い予感はありました。

今日の相手は、「マス」の時に、

防具のないこちらにパンチを当ててきたことがあります。

苦手な相手。

いや、リングでは、相手にそう思わせないといけない。

 

立ち上がって、3分のゴングが鳴るまでは必死に闘う。

 

 

リングを降りるとき、会長が言いました。

「さん。試合ではもっと強いパンチが飛んできます」

 

 

 

相手は若く、身長も少し上、体重と体力とはかなり上

経験豊富でテクニックははるか上

 

もともと張り合おうなんて思ってない。

 

大して痛かったわけではありません。

ボクシングが怖くなったわけでもない。

けれど、ぐじぐじと心の傷が癒えない。

 

 

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だいたい

白旗状態の自分を見て、

相手が手をゆるめてくれることを期待する方がおかしい。

自分の心の弱さ。

 

 

ボクサーなんだから、

相手が倒れるまで殴るわい。

それが厭やったら、

リングに上がろうなんて

思わんかったらええねん。

 

 

わかってます。

わかってる。

  

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悔しい。

すごく悔しい!

 

人生初ダウン

 

ばかやろー!!

 

(この写真は、うちのジムで昨年「ミドル級全日本新人賞」を獲った加藤さん。内容とは関係ありません)

『犬ヶ島』の動画など

犬ヶ島』二度目を観ました。

面白い。何度でも観たい!

 

で、まだ観ていない方のために、

「冒頭3分の映像」

というのがあったのでYoutubeからアップします。

 

仲代達也みたいな神主と

日本絵巻的なプロローグ(シンメトリー、横移動)

そしてそれに続く、「和太鼓三少年」の演奏

まずこれに心打たれるのではないでしょうか。

(必ず大きくして観て下さい)

 

 

それとですね。

この映画、犬の姿が非常に美しい。

 

 

蓮見重彦氏は、

エス・アンダーソンにおける「犬」は、まるでジョン・フォードの「馬」のごとく

特権的な位置にあるのではないか

と書いています。

 

ではこれも動画をご覧いただきましょう。

美犬「ナツメグ」と野良犬「チーフ」との出会いの場。

 

 

(すみません。字幕付きの動画をアップできませんでしたので少し説明します)

水を飲みに現れたチーフ。

「私なら飲まないわ」

と、高いところに現れたナツメグが、その水は毒だと教えてくれる。

チーフは「フェリックスの女だな」と返す

「(笑いながら)何ですって」

「奴と交尾したと聞いた」

「…もう行くわ」

気位が高いナツメグと口の悪いチーフ

ハードボイルドで素っ気ないやり取り

でもその裏に、お互いが魅かれあっているのがうかがえる、という名場面です。

 

 

それからですね、主人公の12歳の少年、「小林アタリ」の声が素晴らしいんです。


 

パチンコでドローンを撃ち落とそうとするこの場面

 

「なんで付いてきたんだ。ここから出ていけ!!」

 

と叫ぶ、その拒絶の激しさ。

 

怒りとそれを支えるのモラルの強さ。

 

心にダイレクトに響いて、思わず背筋が伸びます。

 

 

これがそのコーユー・ランキンくん。

スコットランド人の父と日本人の母を持つハーフ。

12歳ではなく、なんとまだ8歳なんだそうです。

 

動画のアップはしません。

ぜひ映画で体験してください。

 

 

 

 

ウエス・アンダーソンの作品と新作『犬ヶ島』のこと

とうとう、というか、ようやく

犬ヶ島』を観てきました。

 

 

あの「ウエス・アンダーソン」監督の新作です。

 

この監督の作品を最初に観たのは、

ムーンライズ・キングダム』(12年)でした。

これです。

 

 

そして、次に観たのが『グランド・ブダペスト・ホテル』(14年)

これ。


 

なんか、ふたつとも「絵葉書」みたいですね。

 

この監督の、明快な色彩設計

そしてシンメトリー(左右対称)への偏愛から来るものでしょう。

それと、カメラは据え置きで、あまり動きません。

 

さてまず、『ムーンライト・キングダム』から説明させてください。

 

舞台は1960年代のアメリカ。

ボーイスカウトのメガネ少年がキャンプを脱走、好きになった女の子と待ち合わせて、駆け落ちをするというお話。

 

 

もちろん大人たちは彼らを「保護」しようと追いかける。

その大人たちは、陰で「不倫」とか、うさんくさいことをやっています。


 

ふたりは一度捕まってしまいますが、

他の少年たちの手助けで、負けることなく再度駆け落ちを敢行。

 

 

こう説明すると「小さな恋のメロディ」的なかわいい映画かと思うでしょ?

まあ実際、そういうところもあります。

でもこの作品、ただの「心温まる」映画ではないのです。

 

最初のうち、観客は彼らふたりが一体何をしたいのか、もうひとつわからない。

 

だって、ふたりともそれぞれの内に閉じこもってる感じだし、

ひたすら歩くばかりだし

 

 

で、こんなところにやってくる。

 

小さな入り江の砂浜。

彼らはここを「ムーンライトキングダム」と名づけます。

シンメトリー(笑)

 

 

少年が持ってきていた「ポータブルプレーヤー」をかけ、

変なダンスを踊ってしまうふたり。

 

いきなりな展開なんですが、

ここで奇妙に開放的な風が吹くんです。

アメリカの60’s風俗ごっこ

 

子供だから精いっぱい「背伸び」してるんですけどね。

 

 

で、こんな場面につながる。

 

観客は突然のことにハット驚かされ、そして

「そうか、これって恋愛映画なんだ」

とキュンと納得させられる。

 

そう。これは何というか、

それまで閉じこもっていた「繊細なオタク的感性」が、

心の内部からあふれ出して、そして逸脱し、

あげくの果てに大暴走して、

「世界」を突き破っていくという、

大変好ましい作品でありました。

 

 

さて『グランド・ブダペスト・ホテル

 

こちらは「ズブロッカ共和国」というヨーロッパの架空の国が舞台。

 

 

こちらのご高齢資産家夫人が突然死。

 

 

そして自分の財産を、ホテルのコンシェルジェであるこの色男に相続すると遺言。

 

 

(見よこの色彩)

 

遺族はもう大騒ぎ。

そのことから巻き起こる謎解き冒険活劇的なお話なのですけれど。

 

観客を、「3つの時代と現在にまたがるミステリー」という乗り物に乗せ、

次から次へと現れる、甘くて、綺麗で、ファンタスティックな、

まるで豪華な洋菓子みたいな「人口世界」に

溺れさせてしまうというのがこの作品。

 

(見よ、この構図)

 

あまり立派なひとや良いひとは出て来ない。

基本的にみんな自分勝手。

そしてそんなにいやな人もいません。

 

でも、軍警察や

 

 

恐ろしい不死身の殺人鬼に追われたりもしますが、

 

 

それも甘さの中のビターな味付け。

あらゆるものすべてが「作り物」である世界。

その中で繰り広げられるドタバタ。

 

 

「こういうタイプの作品はままあるよね」

と思われるかもしれません。

 

けれどですね、これは観客に向けたエンターテインメントでありながら、

監督は自分の趣味性を満足させることに全精力を傾けているのです(!)

 

というわけで、豪華で、美しく、気が利いていて、本当に楽しい作品。

半面、好みに合わなければ…

とまあ、観る人を選ぶ作品ではあります。

 

 

そしてこちらが監督の御近影。

 

 

どうですか。

「お人柄」が見た目にも現れてる。

 

 

さてさて、今回の『犬ヶ島』は

 

なんとストップモーションアニメ。

CG全盛のこの時代に
古式ゆかしい「コマ撮り」作品なのです。

 

人形を少しずつ動かし、

24コマの撮影でやっと1秒という、気の遠くなるような作業。

 

 

登場人(犬)物の面々

ほらまたシンメトリー(笑)

 

 

人形をすこしずつ動かしての撮影。

「ピングー」とかとおんなじです。

まあ、ピングーはクレイ(粘土)アニメだし、短編ですけどね。

「マック、マーック」

 

 

そしてですね、

今回の舞台はなんと日本なのです!

近未来の工業港湾都市「メガ崎市」

(「川崎」と「長崎」が合体したようなイメージ)

 

 

恐ろしい「犬インフルエンザ」が流行したため、

犬たちは捉えられて「犬ヶ島」に隔離される。

 

主人公の少年「アタリ」は、愛犬を助け出そうとするが、

その裏にはある大きな陰謀があった、というお話。

 

それを暴こうと活躍するのは「メガ崎高校新聞部」の面々。

いいねえ。

 

 

この作品で描かれる「日本」は、もちろん誇張されているのですが、

けれど、よくあるような面白おかしい「オリエンタル趣味」ではないのです。

 

 

何というか、創作の基本姿勢に、

日本文化に対する、「尊重」と「尊敬」

そして「愛」が感じられるのです。

細部の魅力を決しておろそかにしない

 

だから観ていて、

「ああ、こういうのは日本のいいところだよなあ」

と気が付いたりするし、

ちょっとこそばゆいのですけれど、

自分が日本人であることに胸を張りたくなります。

 

監督は昭和の日本映画から多くを学んだようです。

特に黒沢映画が大好き。

 

悪役「小林市長」のモデルは、「天国と地獄」の三船敏郎だし。

 

 

 

犬ヶ島」の犬たちが立ち上がるシーンでは

荒野に「七人の侍」のテーマが鳴り響きます。

 

ぱっぱっぱ、ぱーぱーぱー、ぱーぱぱぱー♪

 

 

いっそ「バタバタバタッ」という音とともに、幟旗が翻って欲しかった!

 

 

 

とまあ、あとは劇場でお楽しみください。

 

 

えー、今回は、「ストップモーションアニメ」という表現の特殊性と魅力

これについて少し述べたいと思ったのですが、

長くなったのでそれは次回に(なんかこればっかしですみません)

 

おやすみなさーい。

 

 

 

 

「定食屋」放浪

JR中央線の「荻窪駅

この駅の周辺には、古くから馴染みがあります。

 

妻と結婚した当初、

西口から3分ほどのところに住んでましたし、

職場が四面道の先にあったこともあります。

芝居の稽古にも、一時期「荻窪区民センター」を使用していました。

 

そんなこんなで、荻窪駅北口の「富士食堂」という定食屋さんには、

かれこれ約30年にわたり通わせてもらいました。

 

 

特に3年前に退職、再就職をして、

定時で帰宅できる気軽な身分になってからは、

ヨガやボクシングジムに行く、あるいは遅い時間の映画を見る、

そういう日以外は、

ほぼ毎日、ここで晩ごはんをいただきました。

 

行くとまず、イカゲソ揚げなんぞで宝の缶酎ハイ(500ml)を飲む。

いやあー、うまい。

 

 

テレビを見たりしているうちに、

選んだ日替わりの定食が運ばれて来る。

定食は種類が豊富。

 

定食以外にも、たくさんの一品物があって、

あれこれ組み合わせを考える。

いったい何十種類あるのか、

メニューは短冊に書かれて、店中の壁せましと張ってある。

 

 

ぬた、おしたしなどは150円。

天ぷら類は250円。

種類もスゴイが量がまた多い。

特に天ぷらは一人で頼むと、

他の料理が食べられなくなるほど。

 

大型の魚も一尾丸ごとを仕込んでいて、新鮮なうちは刺身で出し、

鮮度が落ちるとフライにして定食で出していました。

 

 

また、

「カレーのルーだけちょうだい」とか

「味噌汁に卵を落として軽く煮て」とか

「納豆(70円)トリプルにしてネギ多め、マグロブツにかけて、卵の黄身を落として」とか

物理的に可能な希望はなんなく叶えてくれる。

 

加えて、常連客の好みを覚えており、

ビールは各人の好みの銘柄が出されるし、

 

定食でも、

例えば私が、「鶏ちり鍋。定食で」と頼むと、

味噌汁は出さずに、ご飯は小ライス(他に小皿とお新香が付く)

と、私仕様にして出してくれるのです。

 

 

客層はサラリーマンと高齢男性が主で、

「学生時代からずーっと通ってます」と言う人も多い。

 

調理場は70代半ばの主人と50代の方のふたり体制。

そして、

みんなに「マスター」と呼ばれている息子さんが客からの注文を受け、

それを気だるげに調理場に伝える。

ここは何十年と常にそんな調子。

いつも変わらぬ空気が流れているのです。

 

 

 と言っても、何もかもが変わらなかったわけではありません。

 

 元のお店はこの路地より一本駅寄りの、

もう少し広く、もう少し賑やかな通りにありました。

 

 

それが、隣のお店を買い取って、倍の広さに大躍進。

 

 

ところが、しばらくのちに、突然閉店してしまったのです。

どういう事情があったかは知りません。

 

 

跡には、大手ファストフード系の定食チェーン店が出来ました。

常連客の嘆くまいことか…

 

だがしかし、その落胆はほどなくして解消されました。

裏の路地の飲み屋跡に、「居抜き」の形でかなり狭くはなりましたが、

青い看板も明々と、新店舗が「再建」されたのです!

 

 

 

ここでちょっと「荻窪豆知識」

 

元々この辺りは、

戦後の闇市から発展した「振興マーケット」があった場所です。

 

ですが、安普請の木造の店舗は老朽化し、火災も発生しました。

 

 

より駅に近いエリアにあったお店は、

立ち退く代わりに、新たに建築された駅ビル

 

 

タウンセブン」の中に移りました。

 

 

しかし少し離れたこの辺りは、まだまだ「戦後」の危ない気配を残していて、

 

 

飲み屋さんがたくさん

 

 

その名も「荻窪東銀座」

 

 

現在空地のこの場所には、「3000円」という恐怖価格のピンサロや、

「つまみはすべて170円」という、イカ料理専門の飲み屋があったりしました。

 

そんな中にあって、「富士食堂」は、

正に「昭和オヤジたちの幸福な楽園」だったのです。

 

それが、昨年末突然に…

 

 

ああ!!

 

※ この項続きます。

 

『聖なる鹿殺し』など、前回アップした後に観た映画、そしてもう少しだけ映画の「メタファー」について

ー「あなた様がメタファー通路に入ることはあまりに危険でありす」ー

村上春樹騎士団長殺し」) 

 

 

前回のブログを読んで、妻から

「『メタファーとしての映画』って言い方、なんかイヤラシイ感じがするよね。

それに日本語としても少し変だし」

と言われてしまいました。

 

はい。

そう言いたくなる気持ち、よくわかります。

 

私自身、以前は「メタファー」などと聞かされると、

「何をかっこつけてるのか。”それ”を表現したいなら、ストレートに”それ”を描けばいいじゃないか!」

と思ってましたし。

 

 

では今回、ほとんどが「メタファー」で構築されており、そして映画としても非常に面白い作品をご紹介したいと思います。

 

ヨルゴス・ランティモスというギリシャの映画監督がいます。

その最新作『聖なる鹿殺し』が公開されました。

 

 

そして、それに併せて、一部の単独館で(※1)過去の作品

籠の中の乙女」と「ロブスター」も上映されました。

 

実はランティモス監督、今回の作品でカンヌ三冠となります。

籠の中の乙女」(09年)が「ある視点部門のグランプリ」、「ロブスター」(15年)が「審査員賞」そして今回の「聖なる鹿殺し」が「脚本賞

 

私は『ロブスター』は以前観ていたので、今回観るのは二回目です。

なお、今回の映画感想の(※)は、ネタバレを含みますので、

これから観る予定の方はご注意ください。

 

 

 

この映画の舞台はSF的な架空世界です。

 

この世界の考えでは、

人は「カップル」という形でいることが、本来の幸福な姿なのです。

そしてまた、

カップル」が正常な社会の根幹を為している、という考えです。

 

そのため独身を続ける者は、社会不適応者として冷酷に排除されます。

 

主人公は、奥さんに別の相手(女性)ができたので一方的に離婚され、

自分には次の相手がなかなか見つからなかったため、捕まって、

郊外のホテル施設に軟禁されます。

 

そこでは、同じように独身をかこつ男女が暮らしており、

45日以内に相手を見つけないと、

手術で動物に変えられてしまうのです。(※2)

 

男たちは、日々メイドに性欲を煽られながら、

自慰行為は厳禁(これを破ると恐ろしい刑罰あり)という

「生殺し」の状態で、パートナー探しに努めます。

 

 

つまりこの作品、典型的な「ディストピア(逆ユートピア)物」なのです。

 

観客は、

主人公が属する環境が変わるごとに変化する価値観と、

新たな集団の持つ特殊なルール(※3)を理解しながら、

彼の生き延び方、そして女性関係を追っていくことになります。

 

観ているうちに、この架空世界のカップルたちは、

ふたりの間で必ず何らかの共通点を持っていることに気が付きました。

ですから逆に、

鼻血を出しやすい女性とカップルになりたい男が、

ムリヤリに鼻血をだして「僕もなんです」などと言う。

 

 

カップルが何かを「共有している」ということと、

ふたりが「共通点を持つ」ということは、

似てはいますが必ずしも同じではない。

 

それが社会で混同され、しかも個人への強迫観念になっているところが

まさにディストピア(笑)

 

主人公は逆境の中で新しい恋人と出会います。

そして、ふたり手を取って「組織」を抜けだします。

 

 

その過程で事故が起こり、彼女は大きなマイナスを負ってしまうのです。

主人公は、彼女が受けたマイナスを、自傷によって自らに課そうとします。

 

そんな障害の乗り越え方をして、

その先に獲得できる未来とは、いったいどのようなものなのか。

世界から置き去りにされたような、郊外のドライブインで、

静かに映画は終わります。

 

 

恋愛についての「寓話」、と言えるかもしれません。

 

 

さて今回初めて観た『籠の中の乙女』は、

「ロブスター」の前に撮られた作品。

こちらはSFではなくて、現代のひとつの家族の話なのですが、

設定がやはりかなり変です。

 

 

郊外にある高い塀を巡らせたプール付きの大邸宅。

 

そこに工場を経営する裕福な両親と

長女、次女、長男そして犬の一家が暮らしています。

 

子供たちはそろそろ成人の年頃ですが、

両親から「塀の外の世界は極めて危険であり、車でしか出られない。

貴方たちの兄は、外界で凶暴な野獣「ネコ」に襲われて死んだ」

と言われ、敷地内から出ることを固く禁じられています。

 

※少しの油断が悲劇を生むことを諭す父親

 

それだけではありません。

テレビなど外部からの情報は一切遮断され、観られるのは家族のビデオのみ。

棚に並べた瓶のラベルまではがされており、

物の名称も、わざと違った意味を教えられる。(※4)

 

なぜ両親がそんなことをするのか。

子供たちへの強い支配欲なのか、

あるいは

本当に、彼らの「兄」を死なせており、そのためのトラウマのためなのか、

 

理由は語られません。

とにかく、子供たちは、両親が「安全と考える価値観」の中に保護され、

封じ込められているのです。

 

 

そんな無菌状態の家族の中へ、外部から他人が入ってきます。

 

両親は「男の子には性欲がある」ことは認めており、

父の工場の警備の女性が、その欲求処理のために雇われるのです。

 

 

これをきっかけに外部の情報が入り込み、

それまでの家庭の均衡が崩れていくことになります。(※5)

 

この映画の原題は「DOG TOOTH」

父親が子供たちに

「家を出る時期になったら犬歯が生え変わるので、自分で自然とわかる」

と言い聞かせていることから来ています。

青年の犬歯は、老人になって歯が抜け始めても最後まで残るのだそうです。

 

 

最終的には子供たちの一人が、

なけなしの勇気を奮い起こして家を脱出します。

 

けれどもその果敢な行為も、

結局のところこれまでずっと家庭内で与えられてきた

「非常識」に支えられているのです。

 

そのことに思いが至ると、果敢な脱出による開放感もにわかに消え失せます。

外に出たその子がこれからどうなるのか、

ただ気うつな気分だけがのこる、

そんなラストなのでした。

 

 

では、今回の新作『聖なる鹿殺し』です。

 

前の二本はそれぞれにシュールで奇妙な設定の作品でした。

今回は、加えてよりミステリアスで深刻、

「ホラー」的な要素もある怖い作品になっています。

 

 

主人公は、中年の心臓外科医。

 

 

一人の青年を妙に大事にして、付き合っています。

 

時間をとって二人で食事をする。

青年の生活や将来の希望を聞く。

プレゼントに高価な時計をあげる。

 

 

主人公は自分の妻に青年の話をします。

 

「その子は10年前に交通事故で父親を亡くしており、

今は母親と二人暮らし。なんだか放っておけない」

 

そして正式に家に招待して家族と和やかに食事をする。

青年は礼儀正しく、

子供たち(少年と同い年の姉と少し年の離れた弟)とも仲良くなる。

 

 

穏やかに時が経過していきます。

背後に不穏な何かがあるはずなのだけれど、

それが何かはわかりません。

 

 

青年は屈託くなく主人公の好意を受け取っていますが、

次第にずうずうしい要求をするようになります。

 

強引に自宅の夕食に主人公を招き、

「母はあなたが気に入っている。男女の付き合いをしてくれ」

と言い出します。

主人公は怒り、青年から電話が来ても出なくなる。

 

その一方で、主人公の娘は青年と付き合い始めています。

 

 

やがて、主人公のまわりで奇妙なことが起こりはじめます。

まず、息子が突然倒れ、歩けなくなる。

 

 

入院させて検査をしても原因がわかりません。

そしてある日、

病院にあの青年がやってきて、主人公に話があるといいます。

 

 

「10年前、あなたの手術の失敗で自分の父親は死んだ、

そして自分の家族は崩壊した。

あなたはその責任を取って、

あなたの家族からひとりを選んで殺さなければいけない。

それをしないと正義のバランスが取れない。

この忠告を無視していると、

次には娘さんが、そして奥さんが、息子さんと同じようになり、

いずれ三人とも死んでしまう。

死ぬ前には目から血を流す。

そうなるともう間に合わない」

 

 

そして青年の「予言」通り、

娘も倒れ、歩くことができなくなります。(※6)

 

 

非現実的で理不尽としか言いようのない「神託」を受け(※7)、

主人公は次第に理性を失います。

 

一方、話を聞いた妻は、

冷静に10年前の手術に立ち会った麻酔医に会い、

夫が酒を飲んで執刀していたこと、

そして手術に失敗していたことを確認します。(※8)

 

 

追い詰められた主人公は、青年を地下室に監禁しますが、

もちろんそんなことは何の解決にもなりません。(※9)

 

そして不安から学校に教師を訪ね

「うちのふたりはどっちが優秀と思うか。あなたならどちらのこどもを選ぶか」

などと聞きます。

そしてついに、ある日息子が目から血を流します。

 

 

結局主人公は、

犠牲者を自分の意思で選ぶことを放棄したまま、

暴力を行使するのです。

それは、

「意思の欠落したテロリズム」とも言うべき行為です。

 

おぞましく目をそむけたくなります。(※10)

 

では彼はどうすればよかったのか

そう問われても、

答えは見つからないのですが。

 

 

映画を思い出しながら書くのに熱中してしまい、

長々と書いてしまいました。

今回はほかの映画のこともとりあげて、

映画における「メタファー」に触れるつもりだったのですが。

 

次回は簡潔にやりたいと思います、どうぞご容赦ください。

 

 

 

 

※1 私は阿佐ヶ谷の「ユジク阿佐ヶ谷」で観ました。

14年に地元の映画館「吉祥寺バウスシアター」が閉館した(!)ため、

現在はここと新宿の「シネマカリテ」で観ることが多いです。

そしてバウスの遺志を継いだ「爆音上映」があるときは、立川の「シネマ2」へ

 

 

 

※2 どんな動物に変わるかは自分で決められます。

主人公が連れている大型犬は、実は元兄。

主人公はもし変えられるときは、

ロブスターにしてもらって海底でひっそりと暮らしたいと考えています。

 

 

※3 日課として森へ「独身者狩り」に出かけます。

麻酔銃で一人捕まえるごとに、

45日の施設滞在が一日延ばされるルール。

 

 

その後、主人公はいったんカップル成立となるのですが、

そのためについた嘘が露見してしまい森へと脱出。

そこでレジスタンスの人々に助けられます。

 

 

しかしその集団にはまた別の特殊なルールがあって…と、

異常で残酷な出来事が、奇妙なリアリティを伴いながら淡々と語られていきます。

 


※4 『電話機』とは「塩」のことだと教えられ、実際の電話機は母の部屋のキャビネット奥に隠されています。

 

さらに『高速道路』とは強い風の意味、庭に咲いた小さな花の名たずねると『ゾンビ』よと、

家族内でしか通用しない知識が与えられます。

 

 

三人の子供たちの日常は、

 

空に白く小さく見える飛行機を求めて走り、

「飛行機が落ちたぞ!」という父の声を聞いて芝生に飛び込むと、

おもちゃの飛行機が落ちていてそれを奪い合ったり、

 

父親がこっそりプールに放った魚を見つけて、

「突然プールの水が魚を生んだの!」と喜んだり、

勉強の成績が良いともらえるシール(貯めると賞品がもらえる)を集めたり、

 

そんな日々を暮らしています。

 

 

※5 長女は、長男の相手の女性と取引して、

三本のビデオテープを手に入れ、

生まれて初めて「映画」を観ます。

 

そして彼女は不器用に、映画で見た外部世界を模倣するのです。

 

例えば家族のパーティで、長女は疲れも見せずギクシャクと奇妙なダンスを踊ります。

 

 

身体も神経もバラバラで、気持ちにまるで追いつかない。

けれど彼女の中で映画「フラッシュダンス」のあのシーンが

大暴れしているのがわかるのです。

 

 

三つのビデオの映像は画面には現れません。

 

けれど長女の言動から、

残りの二本は「ジョーズ」と「ロッキー」であることが推察されます(笑)

 

そして、外部のビデオを持っていたことが父に露見します。

 

 

このあとの「折檻」がすごい。

 

父は取り上げたビデオテープをガムテープで自分の手に縛り付けると、

その手で思い切り長女の頭を殴るのです。

何度も何度も、黒いプラスチックケースが破壊されるまで。

 

 禁じていた品物で殴るという、

あまりに強烈な物理的説得力に、呆気にとられました。

 

ついでに書いてしまうと、

「ロブスター」の独身者施設で、禁じられた自慰行為を犯した罰。

それは「トースターに手を入れさせて焼く」というものでした。

 

こうした「痛み」や「恐怖」など、身体の感覚を強く呼び覚ますシーン。

これを私は「映像の身体性」と呼んで珍重しております(笑)

 

さらに言えば、「ロブスター」では、

主人公がレジスタンスに加わったとき、

最初に自分の”墓穴”を掘らされます。

 

「人はみな一人で死んでゆく」のだから。

 

墓穴からは、物語を越えて、土の湿気や匂いが感じられ、

この監督の優れた「身体性」を感じさせました。

 

 

 

※6 ある日、入院中の娘の携帯に青年から着信があります。

「今駐車場にいる。窓から僕が見えるかい」

立てないので窓まで行けないと答えると

「大丈夫。試してごらん」

その言葉通り、娘は立って窓まで行き、青年の姿を確認します。

 

 

青年は何らかの力を操作できるようなのです。

親が娘の立ち姿を見たとたん、力は喪失しまた足は萎えてしまうのですが、

 

※7 この作品、ギリシャ神話のエピソードが元になっているとのこと。

 

女神アルテミスの聖なる鹿を殺してしまった父アガメムノンの罪を償うために、

娘イピゲネイアが犠牲になるという話です。

 

※8 妻は朝、登校前の青年にも会いに行きます。

 

汚くパスタを食べるところを見せられ

「死んだ父と自分とはパスタの食べ方が似ている」

そんな話を聞かされただけです。

 

理由はわかりませんが、

「神託者」である青年と三番目の「生贄」である妻との、

越えがたい溝を感じさせる、

奇妙に印象に残るシーンです。

 

 

だいたい、この映画に出てくる人たちは、

みんな自分のことしか考えていません。

 

麻酔医など、停めた車の中で、主人公の手術失敗の秘密を話すのに際して、

この妻にマスターベーションを手伝うことを交換条件にします。

 

青年の母親は、青年が席を外すと、

いきなり主人公の指(執刀医である彼の指は人々から「キレイ」と称賛されています)を口に含むし。

 

妻も、「生贄にはもちろん自分を選ばないわよね」と主人公に言い、

「子供は死んでも、また作りましょう」などと言う。

 

娘も息子も、主人公に自分を選ばないでくれと言い、

自分の優れているところをあげます。

 

そして一番ひどいのは主人公。

元はと言えば自分が酒を飲んで手術をしたために起こったことなのです。

 

登場人物たちは、それぞれの「葛藤」を見せるのですが、

かといってそこに、内省や他者への配慮があるわけではありません。

ドラマは強靭で宿命的な「力」で動いていきます。

そこらへん、この映画の”語り口”は非常に「神話」的と言えます。

 

※9 監禁して暴力を振るう主人公に対し、青年は主人公の腕に噛みつきます。

 

「どう、痛い?もし僕が謝っても、その痛みは消えないでしょ。

触られたりしたら余計に痛いでしょ。

あなたを納得させるには、こうするしかないんだ」

 

今度は自分の腕に思い切り噛みついてみせます。

「どう、これでバランスが取れた。わかる?これはメタファーだよ」

 

 

妻は青年を脅しても意味がないことを知っており、彼を解放します。

彼の足先に妻が自分の唇を当てるシーンは、

宗教的なものを感じさせます。

 

 

※10 画像は自主規制。

 

 

それと、この映画では全体に病院のシーンが多いためか「縦の移動」が多用されます。

 

 

スタンリー・キューブリックの「シャイニング」でも

ホテル内で「縦の移動」が多用されました。

 

 

共に不安定な「家族」を扱った映画です。

 

そこでの「縦移動」の多用は、

観ていてひどく不安にさせられるのです。

 

迷路の中を進むような気分になるからなのかもしれません。

 

「RAW 少女のめざめ」 ホラー映画の過去と進化形 メタファーとしての映画

「RAW 少女のめざめ」を観てきました。

ホラー映画です。

 

 

 以下、多少「ネタバレ」を含みます。

 

まず、ざっと内容を説明します。

 

大学に入学して学生寮に入った主人公の少女

新入生歓迎のイベントで、先輩たちにムリやり生肉を食べさせられ

(彼女はベジタリアンです)

それをキッカケに「人喰い」に目覚めていくという、

かなりむちゃな話。

ちなみに「RAW」とは生肉のことです。

 

私はまだ「怪奇映画」「恐怖映画」と呼ばれていたころ(※1)

からの「ホラー映画」好きです。

 

 

 

今日では、昔と比べものにならないほど、ホラーを楽しむ人口が増えましたね。

 

種類も「ホラー」で一括するのが難しいくらい、様々なものがあります。(※2)

 

「今回は、どんな切り口で『ホラー』を見せてくれるんだろう」

私は、いつもそんなワクワク感で映画館に向かっています。

 

さて、見終わった感想。

この作品についてはいわゆる「ホラー」とはだいぶ異なった印象を持ちました。

それは「良い意味で」なのですが。

 

そうはいっても、この作品、残酷描写などはかなりの激しさです。

グロテスク方面が苦手でない私でさえ、何度か顔をそむけ、

「だから…それはやっちゃダメだって!」と、組んだ指に歯を立てていました。(笑)

カンヌ映画祭では、5分ものスタンディングオベーションがあったと報じられる一方、嘔吐する人、失神して運ばれる人が出たということでも話題になったようです。

 

 まあ、あちらはキリスト教文化圏ですからね。

 

では、ストーリーに沿いながら感想を。

 

 

主人公の少女ジュスティーヌは16歳。

とてもかわいくて、頭も良い。彼女を愛する両親からは「神童」なんて呼ばれており、

飛び級で獣医大学に入学します。

 

人里離れた場所にある大学は、広い敷地にたくさんの動物を飼育しており、

学生は全員が寮暮らしです。

 

新入生を集めての歓迎イベントは、かなり意表をついた野蛮なもの。

期待と不安で羊の群れように固まっている新人の頭上から、

大量の動物の血がブチまけられ(※3)、挙げ句に生肉を食わされる。

 

 

医大の先輩たちから施される「通過儀礼」というわけです。

実際、その後に見られる実習授業の光景は、

何匹も並んだ大型犬の死体を全員が解剖していたり、

牛の肛門に肩まで腕を差し込んで大量の糞を搔き出すといったもの。

 

それまでペットくらいしか直接に動物に接してない新入生には、

相当高いハードルでしょう。

 

つまりその手荒な歓迎も、

一挙に環境に慣れさせる「ショック療法」の意味があるわけで、

見ていてギリギリですが、イジメが主眼ではないのでイヤな気分にはなりません。

 

そして、主人公の口にむりやり生肉(ウサギの腎臓)を押し込んだのは、

同じ大学に通う彼女の姉です。

 

 

姉は主人公と全く違うタイプ。

積極的でクール。髪形やファッションもパンキッシュでカッコよい。

 

親元で過保護に育ち、優等生の良い子である妹を嫌っているかに見えます。

姉は、自分のセクシーな服を妹に着せ、

酒と煙草に乱れるパーティーに連れ出して、とまどう彼女をあざ笑います。

 

 

また授業では、担当教授から

「君のような優秀な学生がいると、

普通の学生たちが、自分の努力を無駄なもののように感じて、脱落者さえ出てくる。

私は君が悪い成績を取ることを望むね」

などと言われてしまう。

 

それまでの自尊心をうち砕く散々な新生活の中で、

主人公は食べた生肉のせいかアレルギーを起こします。

 

肌は荒れて、皮膚がはがれるほど。

 

※こんな「解釈」を書くと嫌がる人がいそうですが、これは、古い自分の殻を脱ぎ捨て、新たな自分に生まれ変わる「脱皮」を意味していたのでしょう。

 

 そして彼女の「肉志向」が目覚めるのです。

 

母親譲りのベジタリアンだったのに、

学食でソースまみれのハンバーグを手づかみして、白衣のポケットに万引き。

夜、寮の自室の冷蔵庫をこっそり開けて、

同室者(ゲイの男性です)が買っておいた生鶏肉にかじり付く。

 

そして彼女の嗜好は、人肉へと駆け上がります。

 

 

ここで言ってしまいますが、

主人公の「人喰い」は少女の性的な欲望の「メタファー(比喩)」なのですね。

 

こんな風に書くと、

さっきの「脱皮」といい、何やら文学的でしゃらくさい解釈と思われそうですが、

日本題に「少女のめざめ」とあるのはそういう意味でしょうし、

性的な欲望の「メタファー(比喩)」であることは、監督自身が「そうだ」と明言しています。

 

ただ、構造としてうまいと思うのは、

この映画の中で、「SEX」それ自体も、「人肉食」とは別に存在していることです。(主人公も途中で初体験を済ませます)

 

 何故かと考えてみたのですが、

つまりSEXというのは、みんなが考えているほど「個人的」なものではない、

そういうことだと思うのです

 

SEXは社会性の強いものであり、こどもの頃からだんだんと学習していくもの、

そして他人と比較されるものですらある。

そうでなければ、夫婦の「セックスレス」が、

社会問題として語られることなどないはずですよね。

 

これに対して「人喰い」は、

主人公個人の胸に突如芽生えた、正体不明の欲望です。

それは、うしろめたく、抑制が効かないほど激しく、

戸惑う彼女を振り回し、暴走します。

 

十代の性衝動って、そういうものではなかったでしょうか。

 

さて、 ここでもうひとつ特筆しておきたいのは、

「姉」の存在です。

あぶない環境に主人公を引っ張り出し、情け容赦なく放置してしまう、

メフィストフェレスのような姉。

 

ある日彼女は、妹に強制して「ムダ毛」の処理をしてやるのですが、

そこで突発事故が発生します。

 

 

事故自体は偶然なのですが、

そのあとの妹の行動のせいで、結局姉は指を失ってしまいます。

もちろん彼女は激しく怒り、どなり散らし、

果ては噛みつきあって血まみれの大ゲンカもする。

 

 

けれどだんだんと、姉の妹への心情が見えてきます。

 

酔っ払ったふたりが雨の町にくりだし、

姉が突然ジーンズをおろして立小便をして見せる。

そして、妹にもやってみるように迫ります。

妹はうまくできなくて、ジーンズを濡らしてしまう、

大笑いしてジーンズをおろしたままの妹を引っ張りまわす姉。

つられて笑ってしまう妹。

 

青春映画として突き抜けた、開放感のある良いシーンでした。

 

のちに姉は、指の欠けた手を妹に向けて突き出し、

クールに笑ってみせます。

かっこいい!

 

 そう、この映画、激しい残酷描写が続く中で、

こうしたシーンが印象に残るのです。

 

そして笑ってしまうところも多い。

私も映画でかなり笑う方ですが、隣の席で観ていた外国の方は、

残酷描写にタメイキをつきながらも、

ずっとクスクスケラケラと笑ってました。

 

そんな風に、この作品、

「ホラー」としても「青春映画」としても実に良くできています。

 

「メタファー」だ何だと理屈は抜きにして非常に面白く、

本当に色んな見方が可能です。

 

ただ、例えば、映画の冒頭にこんなシーンがあります。

 

 

田舎の街道を女性(主人公)が歩いているロングショット。

彼女は走って来た車の前に突然飛び出す。

避けた車は街路樹に激突する。

 

彼女はそれを無視してまた歩き出す。

大変印象に残るシーンです。

 

あとで、実はこれは、

姉が妹の前でやってみせた行動であったことがわかります。

けれど、その行為に、いったいどういう意味があるのか、

結局説明されることはなく、解釈は観客に委ねられます。

 

 

これなどは、

「これは何かのメタファーなのではないか」

そういう見方も取り入れないと

なかなか理解しにくいのではないでしょうか。

 

そしてこうした特殊な内容に対して、

主演のギャランス・マリリエをはじめとした出演者たちが、

表層的なストーリーとは別に、

「人喰い」が少女の性的な欲望の「メタファー」であることを理解して、

裏で揺れ動く感情を全身で捉え演じていることが、

観る者にちゃんと伝わってきます。

 

そのことが、この作品に、ホラー映画でありながら、

その枠を越えた魅力と説得力を与えていると感じました。(※4)

 

 

このフランス女性が、監督のジュリア・デュクルノー

長編はこれが第1作目だそうで、これからが楽しみです。

ちなみに、彼女にも少し年の離れた「姉」がいるのだそうです。

いいな(笑)

 

 

 

※1 児玉数夫氏の「妖怪の世界」(68年)これが当時、

唯一出ていた恐怖映画の専門書籍でした。

 

 

あとは洋書店でホラー映画の写真集などをながめて、渇きをいやしておりました。

だから石田一氏の「ムービーモンスターズ」(80年)が大阪のプレイガイドジャーナル社から出たときは、びっくりするやらうれしいやら!

 

 

解説はホラーのフイルムコレクターとしても有名な喜劇俳優芦屋小雁氏!

小雁氏のことは、小林信彦氏がエッセイに

「未見の恐怖映画について小雁さんに話したら、

「あなたが観たい程度のフィルムは全部持っているので、

事前に言ってもらえれば自宅で上映してお見せします」と言われた」

と書いてました。

昔のマニアはスゴイ。

(ちなみに兄の芦屋雁之助氏はミュージカル映画のコレクターです)

そんな石田氏も今では鬼籍のひと。年齢は私の一つ下でした。

 

※2 「呪われたジェシカ」(71年)「コレクター」(65年)「何がジェーンに起こったか」(62年)など、かつて「ニューロティック(神経症的)」と呼ばれて特殊な傾向とされていた作品群がありました。現在はむしろその分野の作品が増えていると言えます。

 

  

 

「怪物」や「化物」ではなく、本当に怖いのは「人の心」

そう主張して、あの「羊たちの沈黙」以降に繋がる作品群です。

 

そして最近のもう一方の傾向が、多様化した「ゾンビ」物でしょう。

 

「イット・フォローズ」(15年)は、

その呪いにかけられると化物が現れて殺されるという話。

化物はゆっくりと歩いて近づいて来ますが、その姿は自分にしか見えません。

化物から逃れるには、誰かとSEXをして呪いをその相手に移すしかない。

面白いアイデアですが、現れる「化物」の姿は結局ゾンビです。

 

 

スナッチャーズ・フィーバー 食われた町」(16年)は、

小さな町の人々が、姿はそのままに、少しずつ化物と入れ替わっていく話。

父に病院に連れてこられた少女が「この人、お父さんじゃないんです」と小声で助けを求めてくる。

つまりは「ボディスナッチャーズ 盗まれた町」の変形なのですが、

その化物の姿が、やはり結局「ゾンビ」。

 

 

※3 映画的記憶として、ブライアン・デ・パルマの「キャリー」(76年)を思い出すシーンです。でも、幸いああいう悲惨さはありません。

 

 

ちなみに原作の「キャリー」(73年)はホラーの王者スティーブンキングのデビュー作。

日本では75年に翻訳が出ました。

「海外の新しい文学」という地味な紹介のされ方でしたが、映画のヒットで一転してメジャーに。

 

 

※4

昔、アンディ・ウォッホールが監修し、ウド・キアが主演した2本のホラー映画がありました。

フランケンシュタイン物の「悪魔のはらわた」とドラキュラ物の「処女の生血」(共に74年)

(注:似た日本題ですが、サム・ライミのデビュー作は「死霊のはらわた」(81年))

 

 

 「悪魔のはらわた」は本国では赤青メガネの3Dでも公開されたようです。

また、「処女の生血」はケッサクで、

主人公の吸血鬼は代々続く貴族のため、処女の血しか体が受け付けない。

けれど近代になって処女はなかなかいない。

すきっ腹をかかえて、ようやく「この少女は!」と思ってうっとりとかぶりつく。

けれど、少しして拒絶反応を起こしてげろげろ吐いてしまう。

残念、処女ではなかったのです(笑)

 

 

これなどは、社会構造の変化に伴う貴族階級の没落の「メタファー」、

と言うよりも「パロディ」ですね(笑)

 

そして「パロディホラー」の最高傑作は、

メル・ブルックスの「ヤングフランケンシュタイン」(74年)!

 

 

これについては、話したいことが山ほどあるのですが、

長くなったので、ここらへんで。

 

 

 

「三月書房」で買った本、買わなかった本




先日、懐かしい「三月書房」のことを書いたので、

そこで購入した本のことなどを少し。

 

まず買った本。

 

 

片山健「エンゼルアワー」


片山健と言えば、「こっこさん」シリーズや「たんげくん」など、「日本絵本大賞」も受賞し、今や絵本界の大家ですが、

 

 

私が学生の頃は「SMセレクト」誌などに、

街角に遊ぶ少年少女たちを独特のエロティックな鉛筆画で描いていました。

 

「SMセレクト」というのは、「SM」を扱った月刊誌です。(※1)

 

 

片山健の初期の作品は、

SMセレクトに載ったものも含めて「美しい日々」としてまとめられていますが、

 

この画集ではそれをさらに発展させています。

バルテュス」(※2)を日本の湿度のある土壌に移した感じ、

と言えばいいでしょうか。
当時片山氏は、絵本の原稿を持ち込んだ出版社に

「君には絵本はムリ」と言われていたとか。

そういう時代の鬱屈と、それを乗り越える意欲が現れた画集です。


限定1000部サイン入り。

一目見て欲しくて堪らなくなり、散々迷った末に購入。

ポパイのオリーブみたいな宍戸さんの奥さんが、奥に保管してあったきれいなものを渡してくれました。

 

 

買わなかった本

 

「幻の10年」

 


不思議で衝撃的な漫画でした。

 

作者についてはよくわかりません。

あとがきを「かわぐちかいじ」(※3)が書いていたので、

明治の漫研出身(※4)だったのかなと思います。


100ページほどの薄い本で、同人誌のような装丁だったので、

自費出版だったのでしょう。


開いて驚くのはその密度の濃さ。

 

全ての物が、偏執狂かと思うほどの明細さで書かれていて、

ページのどこを開いても真っ黒。


少女が夏休みに帰郷し、

その一夏の経験が描かれているのですが、

少女があぶなげに存在していた、

「その夏」の世界全部を、

少女の眼球に一瞬映り込んだもののすべてを、

一つ残らず、余さず描き切ろうとする、

馬鹿げたほどに強烈な意思が感じられました。

 


先輩の下宿を訪れた場面など、本棚にずらりと並んだ本の背表紙。

掛けられた絵。吸ってる煙草のパッケージ…

それらを克明に描くのに、一体どれほどの時間がかかったか、

ましてやこの全編を描くのには…と気が遠くなりました。


「漫画」というより、一種の「奇書」と捉えた方がいいでしょう。


かわぐちかいじの「解説」も、説明とかでなく、

「とにかく読んで圧倒された」とだけ書かれていたと思います。

 

いかにも自費出版の冊子なのに、価格が、エンゼルアワーとほぼ同じで、

見かけに反して非常に高価。

 

出会ったのは私がもう東京に移ったころで、

「今度京都に行ったら絶対に買おう」と決意し、

三月書房に行っていざ手に取ると、

今度はその値段のために踏ん切りがつかず、

何年も間散々迷って、

そのうち三月書房のレジ横の棚に見かけなくなってしまいました。


これは私にとって、昔目にしたことのある幻の本でした。

 

今回、ネットを探しまくって、ようやく作者名「小崎泰博」がわかり、画像もその一部を見ることができました。

 

自費出版ではなく、「東考社」(※5)から出た本でした。

 

 

なるほど、「東考社」だったのか!

そういえば、三月書房には、

まるで自費出版のような装丁の水木しげるの文庫本(※6)

がたくさんおいてあり、それが「東考社」のものでした。

 

「情報」は歩いてコツコツ手に入れていた、そんな遠い時代の話です。

 

 

※1 エロス方面の雑誌というのは当時、

淫靡かつ秘密めいた大人の匂いがありました。

大体は書店の店主の近くの棚にあり、

若い人は店主の目が気になって立ち読みができない。

レジに持っていく勇気もお金もない。

万引き警戒と青少年保護のためだったのでしょう。

書店で手に取ることさえできなかったのに、

いったいどこで読んでいたのか?

下宿近くの古本屋さんです。もう読み放題(笑)

 

「SM」といえば、本来はかなり趣味性が高いはずなのに、

なぜか「SM雑誌」はメジャーな存在で、

団鬼六編集の「SMキング」を筆頭に数種類出ていました。

中でも「SMセレクト」は、一般読者が読んでも面白く、

また片山健の他にも「佐伯俊男」など若いイラストレーターに自由に描かせており、

今で言う「サブカル」的な編集で若者に人気がありました。

そういえば、ふたりとも澁澤龍彦のお気に入りの画家でもあります。

他にも、「花輪和一」や少し後年になりますが

石井隆」も書いていた記憶があります。

 

SMセレクト誌

 

「美しい日々」

 

※2「バルテュス」の少女たち

 

佐伯俊

三上寛のレコードジャケットや、山田風太郎の文庫でもおなじみ。今や、海外でも画集が出版され、高い評価を受けています。

 

澁澤訳の「長靴をはいた猫」の装丁と挿絵が片山でした。これもまだあまり売れていないころの仕事です。

 

花輪和一

寺山修司の映画の美術も担当。

一時姿を消していましたが、モデルガンで逮捕、出所の後、驚くばかりの活躍ぶり。


 

石井隆

死とエロスの作家。「死場処」という画集もあります。漫画家からシナリオ作家、そして今では映画監督。

 

※3 かわぐちかいじ

昔、かわぐちの書く人物はみな一様に、暗ーい目をしていました。

「牙拳」好きだったな。

改めて考えると、私が定年後にボクシングを始めたのは、

あしたのジョー」もありますが、「牙拳」の影響が強いです。

沈黙の艦隊」は読んでません。

 

※4 名門明大漫研

 

※5 貸本屋さん向けの本。今ではコレクションの対象で非常に高価。

※6

文庫サイズの簡易印刷、桜井文庫(社長が桜井昌一氏)の名称で「ガロ」系の漫画家の本をいくつも出していました。

ガロを出していた青林堂の永井勝一氏も貸本出版出身ですから、強いつながりがあったようです。

ガロもそうですが、ここも作家にお金は払っていなかったと思われます。

 

 

今回はブログの看板どおり、だいぶ「アングラ」寄りの記事になりました(笑)