「宮谷一彦」=マンガのリアルを変えた人
「宮谷一彦」
この漫画家の名前を目にして、
「あっ…」とショックを受ける人が、
果たして今どれくらいいるでしょうか。
宮谷一彦の仕事で一般的に知られてるものでは、
「はっぴいえんど」の「風街ろまん」の内ジャケット見開きの「都電の絵」があります。
これもあんまり一般的じゃないか(笑)
とにかく画像をご覧ください。
構図の真ん中やや左に電車と車があり、その立体感が見事です。
路面電車の重い車体はカーブでわずかに傾いており、
路面にひびく鉄輪の音が聞こえてくるようです。
電車に比べて、その後ろに連なる自動車のボディは薄く軽い。
さらにそれは、空気の入ったタイヤの上に乗っているのが感じられる、というと少し言い過ぎでしょうか。
背景は緩やかに盛り上がった地形で、その傾斜の緩慢な角度まで、見事に表現されています。
高校時代、細野晴臣の歌う「風をあつめて」を聴きながら、よく眺めていたものでした。
さて、その宮谷の代表作とされる「ライク ア ローリング ストーン」(69年)が、雑誌掲載以来初めて単行本化され、一部で話題になっています。
宮谷について、いしかわじゅんは、
「手塚治虫の後に、もう一度大きな変革をもたらしたのは、(一般的に言われている)大友克洋ではない、その前に宮谷がいたのだ!」
と、声を枯らして叫んでいます。
何故叫ぶのか。
それは、たった5歳下の江口寿史でさえ、
宮谷が当時漫画界に与えたショックを理解してくれないから(涙)
単純に言えばあれです、
ピストルの音が「バーン」から「ダキューン」になる。
爆発音が「ドカーン」から「チュドーン」になる。
初めは驚くがすぐにマネされてそれが当たり前になる。
開発者は忘れ去られる。
ただ、宮谷の場合は、
絵としても内容としても、
あまりに急激にマンガのリアルのレベルを上げてしまったもので、
誰もマネできなかった。
もう「カルト」とか「教祖」の扱い。
山上たつひこは、
東京に来た時に「あの宮谷一彦」に声をかけられ、
さらにウチに泊まればいいと言われて、背中にびっしょり汗をかき、
逃げるように帰りの電車に飛び乗ったと告白しています。
さて、「フリースタイル」という雑誌に
宮谷と作家の矢作俊彦(昔、「ダディ・グース」という漫画家だった)
との対談が載っていて、
これが面白い!
偏屈者オヤジふたりが、ノリに乗って語り合っています。
矢作は
「ホンダのS6って、前が軽いから、ヒール・アンド・トゥーでハンドル切ると、前に沈むものが後ろに引かれるんだよ。
つまり前輪が浮く。この人はデビュー作でそれを描いてんだよ」
とか
「この人は、中上健次のくせに、五木寛之みたいに思われてるのが間違い」
と指摘するかと思えば、
「僕は十代当時から、一番尊敬する現存の小説家は筒井康隆です」
と思わず告白したりする。
宮谷は矢作に
「あなたのことは、育ちがいいんだろうなと思った。
どうしてワルで行くことに決めちゃったの?いつから?」
とまぜ返す。
宮谷が活躍した時期は短いです。
常に新しい表現を探究、展開していましたが、
連載を持つ度に、その都度途中で投げ出してしまう。
対象が新鮮なうちは夢中になっているが、
鮮度が落ちたり繰り返しになると、途端に飽きてやる気を無くしてしまう。
さすがにどこからも声がかからなくなり、
やがて表舞台から姿を消して行きました。
今回の対談で、矢作は
「宮谷さんはもう一度ウェーブが来ると思います。
それはほんとに。もう一回来なきゃ嘘だと思う」
と語っています。
そう。
かつて、ページを開く者の心臓を
常に新しいナイフで切り裂いてくれた、
そんな鮮烈な衝撃を忘れられない人、
もう一度あの切れ味を味わいたい人は、とても多いと思うのです。